2022/06/24勤務地24
苦しかった藤井寺の現場を終えると、この現場を最後にして会社を大阪を後にする
決断をしたのでした。その数か月前、寮にお袋から電話が掛かってきたのでした。
第一声から重く沈んだ声で始まる話に、何か悪い予感が走ったのでした。
父の病気が進行していて、あと数か月命が持つかどうかという病状を伝えてきたのです。
怪我で病院に行くことはよくあったのですが、病気で命に係るようなことになっている
とはつゆ知らず、全く不意にやってきたなという思いでした。
取り急ぎ週末に帰郷して先生と面談させて頂くことになるのでした。
すると更に追い打ちをかけて「早ければ3か月位で山が来るかもしれません」と言うの
です。
まったく思ってもいないことで、失意の中で職場のある大阪に戻ってきたのです。
暫くはこれから先どうするか何も決められない状態でした。
まぁ現場も忙しく、今は仕事に夢中になってやらなければいけないとの思いでした。
しかしそうはいっても父の病状は気になります。時に任せていても、いつかははっきり
と身の振り方を考えなければいけないと言うことだけははっきりしていました。
18歳で大阪にやってきて、いい時代にいい会社にも入れた。
現場所長になるという目標もある。かたや今迄両親に何か孝行の一つでもしたかという
事もありましたね。
そのような揺れ動く思いでしばらく過ごしていました。
しかし段々と苦労して育ててくれた親に対する思いは大きなものになり、
「田舎に帰ろう。そして親の傍で働こう」と腹は決まっていったのでした。
田村さんは「どないしたん、九州支店に転勤をお願い出来るぞ」と言ってくれるのです。
有り難い電話でしたが、もう心は動くことはありませんでしたね。
現場の植田所長には餞別迄もらい、また難波で送別会をしてもらい、藤井寺の現場を
最後に会社を去ったのでした。
また高木さんには生駒の家に泊まらせてもらったのも忘れられない事でした。
そして安部さんとは、帰郷しても親しくさせてもらいたいと思っていました。
ある日「記念に六甲山に登り縦走をしよう」と持ち掛けると、快く応諾してくれて
神戸から宝塚迄雪の舞う中を歩いたのです。
天皇賞の中継を聞きながら、汗とも涙腺からともつかないものがあったのでした。
心残りは田村さんに挨拶をすることなく大阪を後にしたことでした。
当時の心境は、自分で決めたことなのに「落ち延びる敗残兵」そのもので、あいさつに
どうしても行けなかったのでした。
このことは数年前に大阪でご夫婦に会い、当時の若い自分を話すことで、心の荷を
下ろすことが出来たのでした。
そして大阪南港からサンフラワーに乗船して、谷山港に帰ってきたのです。
長い鹿児島での建築人生がまた始まったのでした。