2022/11/14同族ゆえに
25歳になる年に大阪より鹿児島に帰ってきたのだが、それ以後のことはあまりここでは
書いてきませんでした。それなりに仕事を経験してからの帰郷でしたので、それを自分が
発揮できれば現場の任務は進んでいくのでした。
それから新しい技術や特筆するような工法の現場を経験することはなく、特別に記憶に留
まる事は無いのでした。それに短い工期の現場が多く、一年に幾つも一人で現場を担当する
ので、慌ただしく一年を過ごすことが多かったこともあります。
帰郷すると同級生がやってきて、私の設計事務所を手伝ってくれないかと言われ、ほんの短か
い間加勢したことはありますが、しばらくして地場のゼネコンに就職したのでした。
やはりゼネコンマンとしての血がそうさせたのでした。
その会社は加世田市にあったパン製造会社でした。パンメーカーが建設をと思われたと思いま
すが、当時この会社はいくつもの同族会社を経営していたのです。
親会社を中心に、クラスター状にいくつもの子会社がぶら下がっていたのです。
思い出すまでに言うと、遊戯会社、旅行会社、私のいた建設会社、不動産、他にもいくつか
あり、九州では名の通った企業だったのです。
ところが昭和61年7月10日、突然に何の前触れもなく倒産をしてしまったのです。
青天の霹靂とはまさにこの事かと実感として味わったのでした。
同時にその日は鹿児島市の平之町や武町でがけ崩れが多発して、18人もの人が犠牲にな
ったのでした。城山観光ホテルの市街地側はいたる所で発生して、無残な様子をさらして
いたのでした。会社の倒産は九州でも大きなニュースだったのですが、一面の扱いはこの
被害の状況を伝えたのでした。
優良企業とみんなが思い込んでいたパン会社ですが、実相は数百億円の借金で首が回らなく
なっていたことが分かりました。そしてメイン銀行から再三の経営立て直しを指摘されて
いたのですが、経営陣は正面から向き合うことをせずに、とうとう銀行がさじを投げた
のでした。
建設会社は利益を出していて健全だったのですが、同族であるがゆえに資金が回らなくなり、
捕らえられるようにして倒産したのでした。
楽しい家は間もなく30周年を迎えますが、会社を経営するという事は簡単なことではあり
ません。親会社が倒産してしまったことは残念なことでしたが、子会社まで運命共同体にして
しまいました。この事は教訓として次回にそのことをお話ししたいと考えています。