2021/12/20修せざるには
日本人だからか自分では分かりませんが、仏教的な教えや考え方には感銘し得心する
ことが多いです。多分小さな頃より、お坊さんやお寺参りが身近にあって、日常生活に
いつも神仏の存在があったからだと思います。ですのでお坊さんの説教や法話を聞くこと
は嫌いではありません。むしろとても好きです。まぁ、年齢的にも行っているということ
もあると思います。
会社の設計部の連中に、古建築巡りを企画しているが参加しないかと誘われて、躊躇もなく
出掛けることは自然な成り行きでした。もっとも会社の女性も何人か来るということも
気持ちを後押ししてくれましたが。
建築史の教科書で学ぶ様式は奈良、京都、滋賀にほとんど存在していて、教科書で学んだ
建物を目の当たりにしたいという気持ちは、当然のように湧いてくるのでした。
ある時京都の大徳寺という所で、一般市民も参加する座禅会が開催されて、興味を抱き
参加することにしました。大徳寺は一休さんが住職をしていた時代もあるお寺で、秀吉、
信長にも縁のある有名なお寺ですね。
ここでの体験は、半跏座という片足をもう一方の膝にのせて座るやり方で行います。
静寂なお堂で湧き出す雑念をそのままに座るのですが、足が痛んだり、お坊さんに肩を
叩かれることもなく終えたのです。短かったのですが、何か清々しいものを感じた
のでした。お坊さんは頭を剃り上げた姿で、威厳と気合はこちらに十分に伝わってきます。
念仏のお坊さんとはまた違う迫力を感じることが出来るのでした。
禅寺では厳しい修行が連想されることと思います。人間は本来素晴らしいものを持って
いると言います。しかしそれは有るだけで、何の自覚を持つことも出来ません。
それを体現させて、自在に生きるには、修業をしなければならない。その事を
「修せざるには現れず」と道元は言っています。凡人がその境地を体得することは容易
なことではありませんね。