2022/03/18勤務地続3
高松での生活も1年ちょっとが過ぎて、先に竣工した第一期棟に続き、第二期棟およびテニス
コートも完成間近になってきました。予感めいたものはありましたが、大阪に帰ってくるよう
にとの辞令が出たのはこの頃です。
待望の都会での勤務ですが、ゼネコンでは1~2年働いて使い物になるようなことはありま
せんね。まだしばらくは色々な現場を踏み、経験を積む必要があったのでした。
折りしも私達までは大量入社で入ってきましたが、あくる年は半減またその次はその何分の一
と、年ごとに採用は減ってきたのでした。
ということは由々しきことが現場では起きるのでした。新しい現場に配属されても、いつまで
も下働きのままということが続くのでした。
後輩が入ってこないと、次のステップの仕事をなかなか任せてもらえないという現実です。
それで先輩社員が「わしはもう4年目には主任を任されていたぞ」と自慢げに誇らしげに
言われても良く理解できないのでした。
それもこれも昭和48年10月に起きたオイルショックの影響は凄まじく、一瞬にして会社も
採用を手控えるようになったのでした。結局50年代は全く低成長の時代になり、すっかり
雇用枠は減少したのでした。昭和60年頃よりあの悪名高き?バブル景気の走りがやってきて
持ち直すに至ったのでした。
しかしその影響とひずみは若い社員に顕著で「いつまでも一番下で働くのはもう御免だ」と
会社を辞めて新天地を求める人も出てきたのでした。
鹿屋の同級生、中〇君は辞めて帰る時、「君は先輩のように経験を積めていないので、今から
これを教えてやる」と言われたらしい。辞めて帰る後輩に指導するとは、上司も不憫に思って
の事でしょうか。
社会情勢と就職は切っても切れない所がありますが、私達の世代はそのような巡り合わせが
あったのでした。さてそのような訳で大阪に帰ってきて暫くは、リフォーム物件で谷町筋の
大信販ビル改修工事や、京都の関西電力西京極社宅現場に駆り出されたのでした。
それから程なくして配属が決まり、尼崎東部下水処理場に行くことになったのでした。
ここでは土木、建築の作業所が一体となり造り上げる工事でした。
ここでの経験は仕事もさることながら、私的な部分でも自分の視野を広げる現場になった
のでした。