2022/04/27時を経て
名古屋出張のお終いは岐阜県の治水神社へのお参りです。
私にとって名古屋は通り過ぎるだけの町でしたが、どうして立派な都会になりました。
田舎の都会と揶揄される名古屋ですが、地元の人は余計なお世話と思っていますね。
さていつかいつかと言いながらやっと治水神社へのお参りが出来たのでした。
木曽三河川の普請で亡くなった方、病死した方を祀る神社として昭和28年に建て
られたのでした。
薩摩藩家老平田靱負の指揮のもと、千人が薩摩を旅立ったのは1754年1月29日の
ことです。木曽三河川は暴れ川であったことから、治水を徳川幕府より命じられた
ものです。当時の絵図を見ると三河川が複雑に入り組み、本流と支流の見分けも
付きません。どのような設計図を描けばいいのか、かなり現状の把握には困難が
あったのではと思えます。
よく言われるのは、外様大名の大藩薩摩の財力をそぐため、あるいは幕府の恨みを買った
ためとかいろいろ言われています。出された命令を拒否することは出来ず、資金の調達、
人員の配置等に取り掛かり、当日出発の運びとなったのでした。
全て自前の資金でやり遂げなければならない無茶な命令は、今だったら暴動も起きたかも
しれない過酷な普請でした。
資金を大幅に費やしたこと、多くの藩士を死なしてしまったことの責任を取って、平田靱負は
完成を見届けて自害したといいます。
他80数名も徳川への無言の抗議から、割腹自害という意志を示したといいます。
そしてそれを恩義に思い、岐阜県の人は薩摩様とあがめて治水神社を建立したのでした。
これを幕末の西郷、大久保らの藩士は決して忘れることなく、徳川を徹底的に滅ぼした
事はまことしやかに言われることですね。