2022/06/13勤務地22
安部さん、手島さん、私のことが最後になりました。
現場で働く社員は「同じ釜の飯を食う仲」になり、戦友のような関係と言ってもいいと
思います。現場で生コンを打ってはどろどろになりながら差し筋を打ち、墨出しでは手を
真っ黒にしながら、墨ツボを握り、サッシュが入らないといえば斫作業をして、肉体労働
も多かったのです。
また事務所では進まない工程に頭を悩ませ、職人の扱いにも手を焼きと、楽なことより
苦しいことの方が記憶に残り、会えば話はこのようなことに終始するのです。
苦労を共にしたからでしょうか、知らず知らずのうちに連帯感は強いものになって
行ったのでした。
また所長の説教話を聞かなければならないのも苦行の一つで、鮮明に記憶にあるの
でした。順風なことも多かったはずですが、人間にはそのようなことが多く記憶され
格好の酒のつまみ話になるのでした。
そして過ぎ去ってみれば、いい思い出に昇華されていくことを経験するのでした。
それはまったく不思議なことです。
さてその安部さんとは、生涯の友人としてお付き合いさせてもらっていることはお話し
しました。何かと生きる価値観や考え方、感じ方が似ていて長く続いているのでした。
今はコロナの影響で会えませんが、またいつかチャンスは巡ってくるものと思っています。
今では「健康が何より大事だね」と年寄りの話にいつの間にかなってきていますが。
この現場は優秀な人材が多く配置されて、そのような環境で働けたことは幸運でしたね。
日本を代表するような大学を卒業した方が多くいたことは、拙い自分でもやれるのではとの
思いを持つことが出来たのです。
もちろん高卒の先輩も、宮本さんを筆頭に粒ぞろいであったことは言うまでもありませんね。
実際社長や副会長、取締役になった方が多くいて、その後の活躍は目覚ましいものがあった
のです。安部さんは羨ましい位の学校を卒業して入ってきたのでした。
私より3年後輩ですが、年は2つ上になります。まぁ先輩ではありますが、同じ年頃の同輩と
いったところでしょうか。
彼はいくつかの現場経験を経て、会社の研究所勤務に抜擢され、土壌調査では論文をいくつも
書くほどの活躍をしています。そして幹部会に出席する様子は時たまニュースが入り、
かつての職場仲間が奮闘している様子は、やめた人間にとっても気になるのでした。
手島さんは昭和49年大量入社組の同期生です。福岡県の浮羽郡出身で、地道にコツコツやる
タイプの人間でした。故郷に帰ってからは梨、ブドウを送ってもらったのでした。
元気にしているといいのですが。
長い大正の現場話はこれでお終いです。辞令が出て高木さんと一緒に藤井寺の現場に赴任と
なったのでした。