2021/02/17恩師の訪問
「今高松駅に着いたが、そちらに行くにはどうしたらいいのか」
午後の3時位だったと思う。現場から事務所に戻り電話を取ると
聞き覚えのあるゆっくりとした声がしました。
堀之内先生からの電話です。なんでも就職した学生を訪問して、元気にやっているのか
職場環境は間違いがないのか、視察に来た様子です。
橋が架かる前ですので、宇高連絡船という岡山と高松を結ぶ動脈の船便でやってきたのです。
担任ではありませんでしたが、力学と構造計算を教えてくれた先生です。
よく授業中は脱線しては自身の経験談や私たちの知らない古い建築のことを教えて
くれる先生です。面白いのでよく覚えていた先生ですが、教科書の後ろの方は
1/4位未修のまま残っています。
それで卒業式の日に、2時間取って構造計算の授業を行い締めたのでした。
「これだけは教えておきたかった」ということでしたが、この時程気合の入った先生の
授業はほかに知りません。
後は会社で実践しながら勉強してくれということだったのでしょうか。
万事このような調子でどの先生もゆとりがあって、学校行事が入るとすぐ授業は
後回しにする風潮がありました。(当時の先生方に失礼ですが)
どうせ進学しない子供達だから、少々の授業の欠損は構わない、という空気は
みな感じていましたね。
地域の精鋭の子供達?が入ってくるクラスでしたので、中には不満を持つ子もいて
「進路を間違えました」とか「他で教えてもらいます」と言う同級生もいました。
ともあれ堀之内先生は人気があって、授業はあちこち飛びますが記憶に残る先生です。
鉄材を軍事供出して、鉄筋コンクリートに必要な鉄が不足する時代は、孟宗竹を切り
「竹筋コンクリート造」としたこともあったと聞きます。
また大きな建築には必ずと言っていいほど杭が打ち込まれますが、松の生木を打ち込み
代用したのです。
それを実際目の当たりにしたのが、大阪大正区での工場建築の現場です。
既存工場を解体すると、基礎の下の部分に数多くの松の杭が見えたのです。
木杭は地下水位以下にあることで、約80年間も腐ることなく役目を果たしていたのです。
それと戦後就職難が10数年続いた時には、関西、関東を駆け巡り会社訪問を繰り返し、
苦労して教え子を会社に送り込んだことも聞いていました。
私が就職する会社が決まると「そこには小倉君がいるから頼ったらいい」と
言われたのです。
とにかく生き字引のような存在で、ほかの先生も敬意をもって接して
いたようです。私が脱線気味になってしまいましたが、また続きはお話したいと思います。